私は今85歳で牧会45年です。今なお健康で日々暮らしております。私はモーセに倣って120歳と望みを持っています。「モーセは120歳まで生き、目もかすまず、体力も衰えなかった」と出てくるからです。

申命記34:7
モーセが死んだときは百二十歳であったが彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

こういう人生を送りたいものです。いつまでも元気で体力も衰えない。
目も衰えない、近眼でもなく老眼でもない。イエスにあって年を重ねていきたいものです。

創世記6;3
そこで、主は、「わたしの霊は永久に人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

この百二十歳というのは神がお決めになったのです。それは、「人は肉にすぎないから」と言われました。それほど、人は罪深いものなのです。
しかし、今はイエス・キリストによって罪は赦されるから感謝です。

創世記5:23、24
エノクの一生は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。


エノクの一生は三百六十五年とあり相当長生きしたように思いますが、他の人からすれは短命なのです。当時の人々アダムは九百三十年生きた。セツは九百十三年と長生きしたからです。
しかしエノクは天に引き上げられています。最高です。たとえ八百年、九百年と生きても死んだ。死んでは元も子もありません。
私は百二十歳まで生きて天に引き上げられたいと願っています。

Ⅱ列王記2:11
こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと1台の火の戦車と火の馬とが現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

このエリヤは神の預言者です。エリヤは神と共に歩んだので、神が竜巻をもって彼を迎えに来られたのです。何と幸いなことでしょう。エリヤは死んでいないのです。

詩篇92:14
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう。

日々喜びをもって生きることは何と幸いなことでしょう。不満と不服の生活ではなく日々感謝をもって一生を過ごしたいものです。

詩篇1:1~3
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず。罪人の道に立たず、あざける者の坐につかなかったその人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

人生の道は2つあると思います。一つは未信者の道に歩む道と。もう一つはキリスト信仰の道に歩む道です.未信者の道は楽なような気もします.キリスト信仰の道は厳しい道かもしれません。しかしキリスト信仰は命と平安であります。

詩篇1:4~6
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

主の恵みが一同の上にありますように