ここに賢い人と愚かな人とが出てきますが、愚かとは知恵がないという意味ではありません。
ここでの愚かとは、神のことばに聞き従わない人の愚かです。
賢い人とは、知恵があるというより、神のことばに聞き従っている人を言います。その人はよく祈るし、聖書もよく読むし、教会にも熱心に参加し、喜んでみことばを聞く人のことを言います.また喜んで神に賛美をささげ,霊拝する人です.これが聖書でいう賢い人というのです。
昔、第二室戸台風があった時のことです。私の家は高台で岩の上に建てられていました。
私の家は山手であり小川がありました。ある人が、川べりが便利だというので、そこに家を建てました。実に生活に対しても便利なところだったのです。
炊事、洗濯、飲み水に困りません。そんなある日、台風が来たのです。山に含んだ雨水が一挙にその家に押し寄せ、家もろとも池に流されてしまいました。そこの家族は無事でしたが大変な目にあったのです。
私達人生においても岩であるイエスと共に人生を築いていきたいものです。
ヤコブ2:14
私の兄弟たち、だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ヤコブ2:17、18
それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
さらに、こう言う人もあるでしょう.「あなたは信仰を持っているが,私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
私たちも行いによる信仰を見せたいものです。
行いにも良い行いと悪い行いとがあります。私たちはどちらかを選んでその実を食べるのです。アダムとエバは神に背いて悪い実を食べ、エデンの園から追い出されました。
「子供は父の背中を見てまねる」と言います。父の良い行いは子供にも影響を与えます。もし父が悪い人ならば子供も悪くなるのです。
父が信仰に熱心なら子もそれを見習うでしょう。もし父が悪いことに熱心なら子供もそれを見習うのです。ですから父は家庭でも外でも良い見本を見せたいものです。
ルカ24:19
イエスが、「どんなことですか。」と聞かれると二人は答えた。「ナザレ人イエスのことです。
この方は神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。・・・・」
復活されたイエスに対して二人は知らずに証言しているのです。私たちも言葉において、行いにおいても分別のある者でありたいものです。
主の祝福が一同の上にありますように。