私たち、罪ある者はこの強盗と同じです。然し同じ刑につけられていても一人はイエスを信じ救われ御国の約束を受けましたが、もう一人の犯罪人は救われませんでした。 救いはイエスを信じる信仰によるのです。 次に道を行く人々も頭を振りながらイエスをののしって、と出てきます。「他人を助けたが自分を助けないのか」イエスは自分を助けるためではなかったのです。むしろ他の人を救うためにあえて十字架という苦難を受けられたのです。

「ホサナ、ホサナ」とイエスを歓迎した人々も今はイエスをののしって、と出てきます。
人の心は変わりやすいものです。いつまでもイエスを崇めたいものです。
マタイ27:40
言った。「神殿を打ちこわして、三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」イエスが言われた神殿とは、ご自分の体のことであったのです。まさしくイエスは死んで三日後に復活されました。

人々はイエスを神の子と認めているのです。そして「神の子なら十字架から降りてこい」と挑発します。イエスは十字架から降りることもできたでしょう。しかしイエスは十字架の苦しみを受けられたのです。それも私たちのためにです。

マタイ27:41
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

祭司たちも律法学者もどちらも宗教家です。長老とは町の指導者です。その人たちまでがイエスをあざけるのです。イエスは町の指導者また宗教家のためにも苦しみを受けておられるのにです。ここに忍耐と祈りのキリストを見ることができます。

マタイ27:42
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」

自分は救えても他人を救えない宗教家もいるのです。皆さんは奇跡を見たら教会に行きますか。イエスは奇跡だけの人ではありません。魂の救いのためでもあるのです。

マタイ27:43
「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。
『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」


教会もそういうところがあるかもしれません。信徒は気楽なものです。「牧師は神に助けてもらえ」と・・・献金を渋るのです。そして教会には来ないのです。牧師はそんな信徒のためにも祈っているのにです。

マタイ27:44
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

十字架には三つの十字架がありました。
一つはイエスキリストの十字架、その両側には強盗どもの、架けられた十字架です。
同じ十字架に架けられていても、大きな違いです。その一人はイエスをののしりますが、もう一人の犯罪人はイエスを信じイエスを見上げて懇願するのです。天国への約束はイエスを見上げた犯罪人でした。いかに罪深い者でもあっても、イエスを信じて見上げることが大切なことを教えているのです。